石畑隆の読書会日記

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Six fleuvesさんの『規則功利主義における密教的道徳の検討』の検討

 東京大学学部生のsix fleuvesさんが初年度ゼミの小論文『規則功利主義における密教的道徳の検討』をnoteに投稿されていました。

note.mu

 

 関連する文献への網羅的検討はなされていないとはいえ、シジウィックやスマートのような邦語ではアクセスしにくい文献*1も取り上げられており、よく調べられていると思います。また、功利性の原理によって規則がつねに検討される必要性があることを根拠として(規則)功利主義密教的なものになることは必然でないと論じる小論文の趣旨は、功利主義の思想的特色を適切に踏まえており、学部1年生の書いたレポートであることを割り引いても面白い内容だと感じます。

 そのうえで、①「規則功利主義」の定義について、②二層理論について、③論文の趣旨の妥当性について、それぞれ気になる点があるので、(すごく簡単なコメントしかできず恐縮ですが)検討してみたいと思います。

 

①「規則功利主義」と「間接功利主義を採用した行為功利主義」の違いがよくわからない

 「功利主義的な評価を行って意思決定をする際にも,道徳的規則や義務に対して一定の正当性を認める」(規則功利主義の特徴)ことと「行為のより遠い帰結を考える」「判断によっては,個々の道徳的規則や義務に従う場合もあり得る」(間接功利主義を採用した行為功利主義)ことがどう違うのか、six fleuvesさんの説明ではよくわからないです。

 規則功利主義と間接功利主義について説明されているアクセスしやすい邦語文献は安藤馨先生の『統治と功利』第2章と第3章だと思います。安藤先生の説明では、帰結主義的一般化(ある規則をすべての人が守ったときによい帰結が得られるかを考慮すること)をすることが規則功利主義の特徴であるとされている(はず)です。もっとも、周知のとおり安藤先生の議論はかなり難解で、そもそも両者を区別することにどれほど意味があるのかも疑問なので、「区別なんてしなくていい」と開き直ってしまうこともひとつの手段かもしれません*2

 

②二層理論についてなぜ言及がないのかわからない

  「明らかに規則に従うことが功利主義の立場から不正である状況では,規則功利主義の立場においても,功利主義者は功利主義の第一原理に従って行動する。もし,規則に従って行動することを主張したならば,それは規則絶対主義であり,彼は功利主義者ではない」とsix fleuvesさんは論じます。

 (そういうつもりはないのだと思いますが)この記述を見ると「(常に)功利主義の第一原理に従って行動する」か「規則を絶対的に守る」かどちらかの行動基準しか持てないかのように見えます。しかし、日常のちょっとしたふるまいについてまで功利計算を行って行動をすることは不可能だし、規則は往々にして互いに矛盾するため(たとえば表現の自由プライバシー権の対立)、私たちの持っている規則すべてを絶対に守って行動することも不可能です。だからこそ、多くの功利主義者はさしあたり規則に従って行動する場合(ヘアのいう直観レベル)と規則が対立したり新しい規則が必要になったりして功利計算をしなくてはいけない場合(ヘアのいう反省レベル)を区別し、人がそれぞれのレベルを使いわけて行動していくモデルを作ってきました*3

 私たちは完璧な功利計算を常にすることができるわけではないので、規則に従うことが自分の(その場での)功利計算に反しているとしても、他の規則に反しないかぎりとりあえず規則に従うことにしておくことは(功利主義の立場から見て)一定の合理性があります。また、このモデルでは短い時間で判断を求められるケース(たとえば安楽死についての社会的議論や法整備が進んでいない状況で目の前の患者に対処しなければいけないケース)と長い時間をかけて新しい規則を作っていくべきケースが区別されるため*4安楽死のような新しい考え方が社会に登場しうることと規則を(実践者のレベルでは)絶対的なものとみなすべきことは同時に説明可能になります。Six fuevesさんは二層理論を導入しないことで、無意味な論点を付け加えているように思えます。

 

③規則の改定可能性は功利主義道徳の密教的側面をなくすことができるか

 

 二層理論を踏まえれば、功利主義に規則を導入するために必ずしも功利主義を理解し規則を作るエリートと規則に従う一般人との分離は必要とされず、同一の人のなかで功利性の原理を使用するケースと規則に従うケースが分離されていれば十分であることがわかります。とはいえ、社会的な問題を理解し議論を進めて規則を作ることは少数の人によって主導されがちであり、2つのレベルを使いわける少数者と規則に従うだけの多数者の違いが現実には必ず生じるのだと言えるかもしれません*5。このような認識に立った場合、規則を再検討するための議論は一部の人のみで行われるため、一般人にとって規則の功利主義的根拠が隠されたものになることは不可避であると言えるのではないでしょうか。

 もっとも、ほとんどの規則の(功利主義的)根拠を私たちが知らないからといって、それが非民主主義的であるとは言えないかもしれません。私たちの社会は分業によって成り立っており、医療についての規則は医療従事者を中心とした議論によって、教育についての規則は教育従事者を中心とした議論によって改定されています。防災については与えられた規則を守るだけの人が、金融については規則を検討する側に回ることは十分にありえます。功利主義がどのような主題についても固定されたエリートによる総督府を作るものだという批判は、私たちの社会の自然なあり方を踏まえていないといえるかもしれません。

*1:スマートとウィリアムズの論文集は勁草書房の「双書現代倫理学」から邦訳が出る予定みたいなので、スマートについては近いうちにこの状況は解決しそうです。

*2:とはいえ、総督府功利主義についても言及があるので、目を通しておいたほうがよい文献であることは確かだと思います。麻布と東大文Ⅰの先輩でもあることですし。

*3:現代の功利主義だけでなく、ミルの『功利主義』第2章でもすでに似たような議論がなされています。

*4:そもそも安楽死のケースは「人を死なせてはいけない」という規則と「人を苦しませてはいけない」という規則が対立したケースであり、医療実践者ははじめから反省レベルで問題を考えるべきだ、とも考えられるかもしれません。

*5:もっともこれは民主主義一般の問題であって功利主義の問題ではないかもしれませんが。