石畑隆の読書会日記

読書会の広報用ブログです

輪読会はなぜ嫌われるのか?ー吉田新一郎による批判

  哲学的なテーマについて語り合う哲学カフェが人気を集めている。哲学カフェは、大学の講義と異なり、対話に基づいて学習を進められることが魅力であるようだ。

  伝統的な哲学自主学習の方法である読書会も、同様に対話に基づいている。そのため、テキストに基づく哲学カフェも存在する。しかし、哲学を専門としない学生や社会人にも広がりを見せる哲学対話に比べて、支持を欠いているように見える。

  テキストに基づく読書会では、そのテキストにおいて触れられている知識を身につけることができるだけでなく、クリティカルリーディングを通じて批判的思考力を習得し、自分の体験や感覚と結びつけることで相互対話を図ることができる。テキストに依拠して考えをまとめることはテーマだけを与えられて意見を述べるよりはるかに簡単だし、参加者間で問題意識を共有しやすくもなる。運営者の側から見ても、場をコントロールすることが容易である。

  それにもかかわらず、読書会という方式が不人気であるのはなぜだろう。この記事では、既存の輪読会方式に批判的なブッククラブhow-to本である吉田新一郎『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』を参考に、その理由について考察してみよう。

 

理由①:「勉強」の負のイメージ

吉田は、日本における読書会のイメージについて、以下のように述べる。

 

  一方、日本では、〔読書会として〕大学のゼミで「輪読会」や、社会人になってから本を中心に据えた勉強会などが行われているケースもありますが、「楽しい」といった感覚が薄く、あくまでも勉強の手段と位置付けられているようです。また、学校などで「読書会」と称して紹介されているものも、司会者(教師である場合が多い)のもと大人数で行い、一斉授業の変形としてしか捉えられないものとなっています*1

 

  吉田は、「勉強の手段」であることが意識されると「楽しい」という感覚が失われることを前提しているように見える。しかし、これはおかしな前提であり、勉強会として行われる輪読会が楽しいものになることは珍しくない*2

  幸いにも、哲学カフェの流行はこのような主張への反例となっているように思える。というのも、哲学カフェは、「哲学」という学問の名前を冠しており、市民学習としての側面を明らかに有しているからだ。

 

理由②:教員の参加

  また、吉田は、輪読会には上下関係が伴いがちだと指摘する。まず、先の引用でも言及したように、輪読会には教員が参加することが多いため、教員ー生徒という権力関係が輸入されがちである*3

   たしかに、学生にとって教員が参加していることは、自由な発言をためらわせる原因になりえるし、教員の関わり方によっては学生の自主性が損なわれることもあるだろう。しかし、これは学生が自主的に開催する読書会や、社会人の読書会には無関係のことである*4

 

理由③:報告者の存在

   吉田は、レジュメ作成者が存在することも、対等でない関係が生み出される原因になっていると指摘する*5。私はレジュメ進行による読書会を推奨してきたため、これは向き合わなければならない指摘だろう*6

  レジュメ進行以外の方法としては、テキストを音読し、そのあと議論する方法や、本を事前に読んできて話し合いたい点を各自が用意し、それに沿ってディスカッションする方法が考えられる*7。しかし、前者には読み進めるスピードが遅くなるという問題点があり、後者にはディスカッションの方向があいまいになりがちであり、またテキストの内容を一緒に理解してゆくという知的学習の楽しみが失われてしまうという欠点がある。とはいえ、本の感想を共有し対話することを重視するならば、後者は大きな問題ではないかもしれない。

 

まとめ

  この記事では、吉田新一郎の議論を手がかりに、輪読会が嫌われる原因について考察してきた。吉田の輪読会批判は全体として独断的なものだが、権力関係の存在という指摘は検討する価値があるように思われる。輪読会が支持されない理由やその解決方法について意見のある読者は、コメントをいただけると幸いである。

 

 

読書がさらに楽しくなるブッククラブ-読書会より面白く、人とつながる学びの深さ

読書がさらに楽しくなるブッククラブ-読書会より面白く、人とつながる学びの深さ

 

 

 

*1:吉田新一郎『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』、新評論、2013年、p.1。別の箇所で、吉田は既存の読書会には「やらなければいかないもの」「教授に巻き込まれてするもの」という印象がつきまとっていると指摘している(同書 p.49)。

*2:別の箇所で、吉田は明治学院大学で行われているホメロスの読書会を紹介し、「相当の専門性が求められる」ものであり、「小学校〜高等学校の国語の授業を思い出させてくれ」たとした上で、「苦役としか考えられ」ないとし、その読書会の対話としての有益さを指摘する参加者のコメントを理解できないものだとしている(同書 pp.51-52)。彼は、都合の悪い意見を無視して、自らの好みを一般化しているように見える。このような相互理解を拒絶するような姿勢は、how-to本の作者として以上に、対話のファシリテーターとして望ましくないものであるように思える。

*3:同書 p.50。

*4:もっとも、学生や社会人の間でも、年齢差や知識の差によって対等でない権力関係が形成されることはありうるかもしれない。吉田は、大学での講読授業について、「興味のある2〜3人と指導教官が盛り上がるだけ」で「相互にサポートしあう」ことが欠けており、型にはまった議論になっていたと主張するコメントを引用し、「想像以上に寂しい状況」だとしている(同書 pp.50-51)。大学の授業についていけないことは個人の責任であるとしても、読書会における知識の差による権力関係の排除はたしかにひとつの課題であるかもしれない。

*5:同書p.50。吉田は、レジュメ発表により報告者と被報告者の間に非対称性が生じ、被報告者が「お客様」になってしまうとする。

*6:私の周りでは、主催者がすべてレジュメを作成する形式の読書会が多く、現在開催中のキムリッカ『現代政治理論』読書会もそれに習っている。吉田はブッククラブに特定の主催者が存在しない状況が理想であるとしており(同書p.216)、権力関係の排除という視点から見るとこの形式は不適切なものであるかもしれない。

*7:吉田は後者を推奨している。たとえば同書 pp.72-73。